平賀源内とうなぎの関係はどうなっているのでしょうか。
平賀源内といえば江戸時代の蘭学者です。彼の名前自体は知らない人も多いと思いますし、歴史的に見てもそれほど有名な人でもありません。
そんな彼が土用の丑の日にうなぎを広めるきっかけを作ったと言われていますね。
彼がいつどのように、どうやって土用の丑の日にうなぎを食べる風習を広めたのか今でもいろいろな説が飛び交っています。
また土用の丑の日にうなぎを食べる風習を広めたのは彼ではないという説もあります。
平賀源内とうなぎの関係についても色々調べてみました。
土用の丑の日にうなぎを食べる習慣や由来についても調べてみたので興味がある方はサラッと一読してみてくださいね(^^♪
目次
平賀源内ってどんな人物なの?
土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を広めたとされる平賀源内ですが、
彼は1780年1月24日生まれ(安永8年12月18日)の江戸時代中期の人物で
讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の出身で、江戸時代を代表するの蘭学者の一人でした。
また蘭学者だけでなく医学や地質学、本草学にも精通している医者としても有名で、俳人としても知られている様々な方面で幅広い才能を発揮した巷では天才と呼ばれるほどの人物でした。
ここまで調べてみると平賀源内がうなぎを土用の丑の日に広めることとは縁がないようにも見えますが、そんな彼がうなぎとどう関係し、土用の丑の日に広めることになったのでしょうか。
平賀源内とうなぎの関係について
先にも述べましたが、平賀源内とうなぎの関係についてですが
歴史上の記録や一般的な所説としては
平賀源内がうなぎを広めた功績を作った第一人者として定められているようです。
平賀源内がうなぎを広めるに至った理由とは?
平賀源内がうなぎを広めるに至った理由は
彼なりにうなぎを世間に広く食べてもらうためのマーケティングの一環だったと言われています。
また、うなぎは現代社会でも高級品ですが、江戸時代の当時は一般市民にとってもかなり高級な食べ物だったそうです。うなぎを食べるという風習は少なからずありましたが、まだまだ世間一般的には定着していないこともあり、
「どうすればうなぎをもっと世間に広く食べてもらえるようになるのか?」
と考えた末の彼なりの策だったようです。
土用の丑の日にうなぎを食べる習慣の由来として
土用の丑の日にうなぎを食べる習慣の由来になったのが
「夏バテ防止のため精のつくウナギを食べてこれから訪れる猛暑を乗り切ろう」
土用の丑の日の「丑(うし)の字」の「う」にちなんで「う」のつく食べ物としてうなぎを食べて習慣や風習を世間に広めるように意図されたようですね。
それから平賀源内の目論見は見事に成功し、毎年訪れる土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を世間一般に定着させることとなったと言われています。
ちなみに、厳密には土用の丑の日にうなぎを食べる必要性は全くないんですよね(^^;)
あくまでも夏バテ防止のために精のつく食べ物としてウナギがリストアップされて広まったに過ぎないので土用の丑の日の「う」の字が頭文字に当たる食べ物を食べるという流れが本来の土用の丑の日の過ごし方だと言われています。
また、うなぎは高くて買えないという人も多く、土用の丑の日にうなぎを食べずに他で代用したいという人の為に
こちらの記事も参考にしていただければと思います。
平賀源内以外の土用の丑の日のうなぎに関する諸説として
平賀源内がうなぎを広めた人物として世間一般的に認知されているのですが、一部では平賀源内が土用の丑の日にうなぎを食べる風習の発祥ではないという説も囁かれています。
では、平賀源内でなければ一体誰が土用の丑の日にうなぎを食べる風習を広めたというのでしょうか。
実は平賀源内が活躍した江戸時代よりも遥かに昔の時代にその痕跡が残っているという、少し信じがたい驚きの事実が分かってきました。
実は大伴家持という人物が土用の丑の日のうなぎの祖であるという説
江戸時代の平賀源内が発祥といわれていますが、それよりも遥か以前に大伴家持という人物が土用の丑の日にうなぎを食べる習慣や風習を広めたのではないかと言われています。
大伴家持という人物は奈良時代の貴族であり歌人。
あの万葉集の編纂に携わった歌人の一人と言われる程の人物です。
江戸時代からまた随分と遡りましたね(^^;)
この大伴家持という人物がうなぎを食べる習慣の祖ではないかとされる根拠が万葉集の一説にあります。
万葉集の原文は
石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫
ですが、
これだと何て書いてあるのかさっぱりわかりませんね(^^;)
これをさらに訳すと
【石麻呂(いしまろ)にわれ物申す夏痩に良しといふ物ぞ武奈伎(むなぎ)取り食せ】
となります。
これが万葉集の一説にありますが、この武奈伎(むなぎ)という言葉がウナギのことと言われています。
ここからさらに訳すと
石麻呂に吾(われ)物申す夏痩せに良しといふ物ぞ鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ
となります
更に現代風に分かりやすくすると
「俺は石麻呂に言ってやったんだよ。夏痩せには鰻がいいから捕って食えと」
ということになります。
万葉集の一説に上記のような詩があることから、これが土用の丑の日にうなぎを食べる習慣や風習の祖は大伴家持ではないかという根拠になっています。
夏痩せとは、夏の猛暑のあまりの過酷さに身体が弱り切ってしまい食事を摂る気力も失せてしまうことから痩せていくということです。
現代社会はウナギが絶滅危惧種になるほど激減していますが、奈良時代や江戸時代の当時はまだまだウナギの数は比べものにならないくらい多かったと思うので、
これを乗り切るためにスタミナがつくウナギを食べるという考え方が既に奈良時代からあるというのは素直にお驚きですね。
表向きの土用の丑の日にうなぎを食べる風習を生み出したのは平賀源内になっていますが、
掘り下げると奈良時代の大伴家持が最初ではないかと言われるのは調べてみて初めて分かることですね。
さいごに
平賀源内とうなぎの関係や土用の丑の日にうなぎを食べる習慣の由来については以上になります。
諸説は数多くあれど、これが一応の史実とされています。
これが史実であれば、江戸時代から平成の現代社会に至るまで日本国民は平賀源内の策に見事にハマってしまったということになりますね(笑)
毎年のように土用の丑の日になると、スーパーの店頭にうなぎが並べられ、新聞紙上ではうなぎの蒲焼の写真が掲載された記事がドンと載って消費者の購買意欲を向上させるのに一役買っています。
朝のニュースでも「土用の丑の日なのでうなぎを食べましょう」という流れに持っていかれ、日本中の人々が何の疑いもなく土用の丑の日にうなぎを購入していくことになります。
これを考えると2、300年も前の一人の蘭学者に過ぎなかった平賀源内という人物は自身が没した後も自分が広めたマーケティングの効果で日本中を操っていることになりますね(^^;)
そう考えると、本当に色々な意味で恐ろしい人物という感想を抱いてしまいます(笑)
ちなみに土用の丑の日に必ずしもウナギを食べる必要性はありません(^^♪
土用の丑の日にうなぎを食べるという習慣は平賀源内が広めたマーケティングで、それが現代社会にまであたかも風習として残ってしまっているのです。
うなぎ以外で代用したかったら土用の丑の日なので「う」のつく食べ物を食べるようにしてもいいかもしれません。
土用鰻の源内起源説が定説化していますが、根拠は全くありません。それとも御自身で確認したことがあるのですか。ネットで「土用鰻の平賀源内起源説の出鱈目」と検索してみて下さい。