豊臣秀吉の豊臣家は徳川家康の下克上に遭って、滅亡してしまいましたが、豊臣秀吉の子孫は現在でも存在しているのでしょうか。
豊臣秀吉の息子に秀頼が存在して、秀頼の成長を徳川家康が何よりも警戒していたことは有名な話ですが、大坂夏の陣で秀頼は母である淀殿(浅井茶々)と共に自害したことになっています。
本記事はここから先の話で、豊臣秀吉の血筋は現在でも断絶していないのか?
ということに歴史上の史実などから考察していきたいと思います。
織田信長や徳川家康の子孫は現在でも普通に存在していますが、豊臣秀吉に連なる豊臣家の人間は徳川家康にとっては脅威になると判断されたためかほとんど存在していないと思われますが、
実際のところはどうなのか?
それについても解説していきますね。
では、先ずは豊臣秀吉の子孫や末裔に関する現存の有無について解説していきましょう。
目次
豊臣秀吉の子孫や末裔は現在も存在している?
果たして、豊臣秀吉の子孫や末裔は現在も存在しているのでしょうか?
いきなり結論から入りますが、
豊臣秀吉の子孫や末裔が存在しているという事実は現在では確認されておりません。
しかし、あれだけの女好きとして有名だった豊臣秀吉には側室が10人以上もいたとされていますので、隠し子など豊臣秀吉の血筋が現在でも生き延びていても不思議ではないと思いますが
実際のところはどうだったのでしょうか。
あまり子宝に恵まれなかった豊臣秀吉
実は豊臣秀吉は側室が10人以上いたとされていますが、ほとんど子宝に恵まれなかったと言われています。
側室の一人であるの淀殿との間に生まれた秀頼が豊臣秀吉の実子とされています。
また、秀頼以外にも何人かは子供をもうけたみたいですが、いずれも医療面では不安定な時代なので後継者として成長するまでは生き延びられなかったらしいです。
事実、淀殿との間に秀頼の兄である鶴松が生まれましたが、秀頼が生まれる前に病死しています。
淀殿以外の側室との間にも子供は生まれたと思いますが、ある程度の年齢まで命が持たなかったみたいですね。当時は、医療技術も乏しく風邪などでも人が死んでしまうような現状だったので、子供の生存に関してはかなり厳しいと言わざるを得なかったのでしょう。
だからこそ、死んでしまうのを見越して側室を10人以上も囲っていたとも言えますね。
豊臣秀吉の子孫に関する歴史上の史実は?
豊臣秀吉の子孫に関する歴史上の史実についてですが、
先ずが豊臣秀頼が挙げられますね。
その秀頼が生を受ける前に鶴松という子供をもうけていますが、成長するまでに病死してしまいました。
秀頼と鶴松以外にももう一人子供が生まれていたという記録がありますが、いずれも成長して後継者と認定されるまで生きられませんでした。
息子の秀頼の代で豊臣家は断絶?
事実上の豊臣秀吉の後継者は豊臣秀頼になりますが、秀頼が子宝に恵まれなかったのと同様に秀頼も子宝にはあまり恵まれなかったようです。
記録によると秀頼が作った子供は男の子と女の子の2人。また隠し子が1人いたのではないかという説が残っています。
豊臣秀頼には子供が2人いたことになりますが、秀頼自身は大坂夏の陣で自害しており、その子供は秘密裏に大阪城から逃がされたという史実があります。
子孫は徳川家康によって淘汰されてしまう
豊臣秀頼の息子である国松は、大阪城が陥落した夏の陣の最中、秘密裏の逃がされたと聞きます。
徳川家康もその情報を掴んでおり、全国的に捜索を開始して京都に潜伏しているところを発見されて国松は処刑されてしまいます。
秀頼の娘であり、国松の妹でもある奈阿姫も国松に続いてすぐに捕縛されましたが、彼女は千姫の養女として鎌倉東慶寺に出家して尼僧として生き延びることで生かされました。
奈阿姫は出家してその後は子供を全く作らずに生涯を終えたと史実では記録されていますので、事実上豊臣家は断絶したとされています。
子孫は実は存在している可能性も
さて、ここまでで豊臣秀吉の子孫は断絶したと書きましたが、実はこの話には隠された噂というか真実、真相があるのではないかと言われています。
そう、実は豊臣秀吉の子孫は現在まで生存しているのではないかという説も上がっているのです。
処刑された国松は替え玉だった?
大坂夏の陣の後に生き延びた秀頼の息子の国松ですが、この国松は大阪からそれほど離れていない京都で発見されてしまいます。
豊臣家の子孫が生きており、豊臣家の再興を掲げた反乱分子による新たな戦乱を恐れた徳川家康は国松を処刑します。
実はこの処刑された国松は、国松本人ではなく替え玉ではないのかとの説が浮上しているのです。
秀吉の正室の兄の子供の四男である木下延由が豊臣国松ではないかと言われています。
木下延由は四男という地位にありながら過剰とも呼べる財産分与を受けて長男との関係に軋轢を生じさせます。
このある意味では過剰とも呼べる財産分与に当時の家臣などが首をかしげずにはいられませんでした。また、木下延由の行動には謎が多く、年齢を詐称したり、名前を変えたりなどの行動が目立ちました。
明治維新後に木下延由の子孫は苗字を「豊臣」に変更し、豊臣秀吉の子孫を名乗ったことなども、大いに疑問の余地が残る結果となったのです。
まとめ
【豊臣秀吉の子孫や末裔は現在も存在している?歴史の史実からも考察】
の内容としては以上になります。
如何だったでしょうか。
豊臣秀吉や子孫をはじめとする豊臣家は徳川家康によって滅ぼされてしまって、現在では生き残っていないだろうとされていますが、子孫は消えても豊臣秀吉の遺志を継いだ後継者は残っているとされています。
豊臣秀吉の正室である高台院の兄である木下利房が関係しているとされています。
この正室の高台院は豊臣家滅亡後も生き残り木下利房の子供を養子にして育て始めます。高台院は養子である兄の息子に近江の所領である3万石を与え、苗字として「羽柴」「豊臣」と豊臣家継承者の資格を授けることにしました。
しかし、この事態を重く見た幕府は高台院が死亡した跡、「羽柴」「豊臣」の姓を名乗ることを禁止します。
幕府側としては豊臣家の影響力は未だの根強く残っており、先を憂いての処断だったのでしょうね。
特に豊臣家に関してはかなり神経質だったのでしょう。
以上の点等から豊臣秀吉の正室である高台院の兄「木下利房」が豊臣秀吉の後継者と目されているようです。
実際のところはどうなのかは不明ですが、血筋は耐えてもその思想や遺志は死ぬことは無いとはよくいったものですね。
では、以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございました。