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現代社会でも謎とされている豊臣秀吉の性格ですが、豊臣秀吉の功績や経歴ばかりがクローズアップされてしまい肝心の性格の方が分からずじまいですね。

過去の文献にも豊臣秀吉の性格が記されているものがありますが、現状では豊臣秀吉の性格を判断する材料は生前に行った改革や発言、言動や活動からしか考察するくらいにとどまっています。

本記事内容としては豊臣秀吉の性格はどのような性格だったのか?

豊臣秀吉の歴史上の発言や言動と記録から人柄を考察し、解説していきたいと思います。

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豊臣秀吉の性格とは?

豊臣秀吉は日本史を学んだ限りでは織田信長ほど苛烈ではなく、徳川家康ほど智謀に長けていないようにも見えます。

歴史上の人物で好きな人を上げると「豊臣秀吉」が出てくることから、現代社会に生きる日本人にもそれなりに親しまれている人物のようですが、実際の豊臣秀吉の性格はどのようなものだったのでしょうか。

以下から一つずつ解説していきますね。

頭の切れる性格と真面目で地道な努力家で人懐っこさで有名?

豊臣秀吉は当初は頭の切れる性格とは言い難いと言われていますが、織田信長の時代から足軽から入り徐々に織田信長の信任を獲得していく姿が印象に強いですね。

 

その姿から察するに豊臣秀吉は非常にまじめで地道な努力家だったことが分かります。

 

また、人に取り入るのが非常に上手で人懐っこさで有名だったようです。また織田信長の下積み時代から様々なことを学んでいき次第に頭の切れる性格の野心家へと成長していったようです。

 

豊臣秀吉の世渡り上手な性格は誰もが知るところ

豊臣秀吉の世渡り上手は冬の日に信長の草履を温めておくという行動からもありありと分かります。

 

豊臣秀吉は脚がるから織田信長に仕えて、織田信長が戦死する時点から既に部隊の一角を任されるほどに頭角を現し始めていました。そして、主人である信長の訃報を受け主である信長の弔い合戦という名目の元明智光秀を打倒して、完全に信長の軍勢を押さえました。

 

そして、それを足掛かりに各戦国武将を屈服させて全国を統一して関白にまで上り詰めていますね。

 

豊臣秀吉の世渡り上手な性格は誰もが知るところですが、豊臣秀吉が世渡り上手と言われる由縁は必ずチャンスをモノにしてきたところから来ているのかもしれません。

豊臣秀吉は女好きで有名だった

豊臣秀吉の女好きの話は何気に有名でテレビなどでも度々紹介されています。

 

豊臣秀吉が生前に関係を持った女性の数は300人以上とも言われており、特に主君である織田信長の家系の女性を寵愛したようです。

 

これについては豊臣秀吉自身が貧しい百姓の出身だったこともあって、敬愛する織田信長と同じ立場の人間になりたかったのではないかと考察されています。

 

豊臣秀吉は特に高貴な家の生まれの若い女性を好んだとされていますが、この女好きが後々災いとなって降りかかり「脳梅毒」に罹患してしまい生涯を閉じる原因の一つになったとされています。

 

他者を従わせるカリスマ性を如何なく発揮

また、豊臣秀吉は他者を従わせるカリスマ性がずば抜けていた人物の一人でもあります。

 

貧しい百姓から天下統一を成し遂げたので能力的にも他とはずば抜けていたとされていますが、特に他の武将を引き付けるカリスマ性はのちに反乱を起こした徳川家康自身も従わせるほどのものでした。

側近である石田三成や前田利家などの強力な武将を従わせ、謀略家として知られている徳川家康をしても

「この人に逆らってはいけない」と警戒させるほどでした。

 

豊臣秀吉が崩御した途端に手のひらを返したように徳川家康が天下を奪い取った行動からも察するに、豊臣秀吉の影響力やカリスマ性は徳川家康をもってしても太刀打ちできないくらいに強固なものだったというのは想像に難くありません。

また、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたのはこのカリスマ性あってこそとも言えますね。

豊臣秀吉は目立ちたがり屋

豊臣秀吉は目立ちたがり屋とも言われています。

 

秀吉が織田信長に仕える夢がかなった当初は身分が低かったために責任の重い仕事が回ってきませんでしたので、率先して誰もがやりたがらないような嫌な仕事をこなしていくしかありませんでした。

 

その当時に豊臣秀吉が担当したのがトイレの掃除や草履番などの仕事でした。家臣たちが誰一人としたやりたくなかった仕事を確実にこなしていって主人である信長の信任を得て、天下統一を成し遂げたときには自身と朝廷の関係を密にした「関白」という称号を得たと全国に広めました。

 

また、その時に自分に従う武将以外にも敵対している武将すらもその場で従わせるなど、かなりの目立ちたがり屋な性格だったと言われています。

豊臣秀吉は他者や他の領土に対する支配欲も強かった

豊臣秀吉の天下統一の行動からも分かる通り、豊臣秀吉は他者や他の領土に対する支配欲も人一倍強かったようです。

 

そうでなければ天下統一などは出来ませんし、あれほど多くの武将を従えることもできなかったでしょう。

しかし、彼の致命的な点は自国だけでは飽き足りなかったということです。

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豊臣秀吉の発言や言動は?

豊臣秀吉の発言や行動から客観的に見てみると、

彼の支配欲が旺盛過ぎる点は海外である朝鮮半島への出兵が物語っているでしょう。

朝鮮出兵に関してはこちらを参考にしてみてくださいね(^^♪

 

また、豊臣秀吉の性格を表す発言として有名なのは

ホトトギスの川柳ですね。

 

ホトトギスによる川柳は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下統一に関わってきた3名の川柳が有名ですが、

豊臣秀吉のホトトギスを題材にした川柳としては

 

鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス

とありますね。

これはホトトギスをモチーフにしていますが、このホトトギスを戦国武将などに言い換えれば

従わないなら従わせるまでだ

 

と言っているようにも聞こえます。

つまり、このホトトギスの川柳から豊臣秀吉の人柄が現れているといっても過言ではないような気もします。

 

豊臣秀吉の歴史上の記録から人柄を考察

 

織田信長に仕えて一兵卒から天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の偉業は誰もが認めるところで、日本史を代表する戦国武将だと言ってもいいかもしれません。

また、虐げられる側である農民だったことからも他人の痛みが分かる性格とも取れますが、権力を手にするにつれて変わっていったことも否定できませんね。

また、他者を引き込んでしまう強烈なカリスマ性を持っており、のちに天下統一を成し遂げた徳川家康も秀吉のカリスマ性を警戒していました。

だからこそ秀吉が生きているうちは大人しく従い、叛意を見せませんでしたね。

 

豊臣秀吉については、日本の天下統一を成し遂げただけでは満足できずに挑戦まで出兵したこと等も人柄を窺い知ることはできますが、歴史上の記録から豊臣秀吉の人柄を考察するとして

織田信長ほどに厳しく苛烈ではないが、徳川家康ほどに智謀や奸計に長けているわけでもない

 

というのが最終的な結論になります。

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まとめ

【豊臣秀吉の性格について!歴史上の発言や言動、記録から人柄を考察】

の内容としては以上になります。

如何だったでしょうか。

豊臣秀吉の性格と人柄については諸説様々な憶測がありますが、その人柄や性格をもっとも繁栄していると考えられるのが

秀吉の政策やホトトギスの川柳でしょう。

ホトトギスの川柳からは彼の性質というか性格がひしひしと伝わってきますね(^^;)

 

また、周囲の反対を押し切って朝鮮出兵を敢行したことも彼の性格を表しているとも言えます。

 

しかし、織田信長に一兵卒(足軽)として使えて天下統一を成し遂げた功績は本物です。

 

まとめとしては良くも悪くも秀吉は純粋な一人の人間だったのではないかと考えています。

 

では、以上になります。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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